宮崎信敦の功績と生家
「信敦は安永5年(1776)3月20日蛭池村三島神社神官の子として生まれた。幼い頃柳河の冨士谷御杖に皇学を学んだ。その後京都に行き、萩原家で神道を修める一方、和歌は香川影樹に入門をした。
28才で郷里蛭池に帰り、三島神社の祠官を勤める傍ら、国典と歌道の教授をした。
久留米明善堂の講師にもなった。弟子は数百人に及んだ。
文化14年(1817)従五位下に叙せられ阿波守に任ぜられた。
樺島石染や真木保臣(和泉守)等久留米をはじめ各地の国学者など訪ねるものが多かった。
文久元年(1861)8月5日86才で没した。現在神官宮崎家は信敦の生家である。明治39年(1906)大日本歌道奨励会では信敦を日本歌神の一人に入れた。」
大木町教育委員会
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