荘八幡神社御縁起
「当荘八幡神社の沿革を述べますと、第五十六代清和天皇の御宇貞観元年宇佐八幡宮の御分霊を神輿に奉持し京都の男山にお祀りすべく、宇佐の地を出発され途上貫の庄に鈴石と云う大石があり一夜此の石の上に駐輿せられました。斯くて貞観二年に神輿は男山に到着され石清水八幡宮の御誕生となった訳であります。これは一重に国家鎮護の目的による創祀であり飽くまでも神恩奉戴の意であったかに承ります。
此処貫の庄に在リましては当時貫の領主小弐従五位の下藤原の朝臣石川左近将監直木が自ら神主となり宇佐八幡宮大神の御分霊としてお祀りし第五十七代陽成天皇の御宇元慶七年二月には社殿を造営してお祀りし貫の庄の鎮守の神と崇め住民の発展と共にその子孫にしては産土の神と戦い、日に進み月に歩みの隆盛に伴い氏の神即ち氏神としての尊崇を昂めつつ平穏に繁栄の一途を辿って参りました。之も神恩の然からしむる処と存じ奉るのであります。鎌倉幕府北条泰時公の貞永式目にも神は人の敬いによって威を増させ人は神の徳により運を添うるものなりと。
貞観元年に神輿が一夜駐輿せられて以来千百二十年の星霜を閲し社殿の創建より千九十年の永きを経過して居りますものゝ時として祭祀にも盛衰あり社殿の修復も度重ねて参りました事は勿論であります。其の昔足利尊氏公より八十町の祭田を献上せられました神社も創祀の頃は鈴石八幡宮と称し軈庄八幡神社と改名せられそして貫の庄が遠く藤原氏の荘園でありましたに鑑み荘八幡神社と三度改称せられ近郷の人々により貫の大宮様と尊称せられつゝ明治七年六月九日には郷社に昇格し明治四十年三月二十日に神饌幣帛料供進神社に指定せらました」 |