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清水寺辨天橋

2008.07.06


北九州市小倉北区清水4丁目

橋長:5.0m
橋幅:1.4m
2径間円弧桁橋
架設:昭和10年




清水寺
「真言宗清水寺は、創建の年代は不詳ですが、慶長5年(1600)細川忠興が小倉城築城に際して、城の裏鬼門に当たる現在地に堂宇を建てて祈祷所としました。寛永9年(1632)入国してきた小笠原忠真も、夫人の永貞院とともに深く信仰しました。
 境内には、方円流碑や旅賓之墓などがあります。

方円流碑(旧参道左側、聖観音堂の上)
直方円斎(名は守一)は、江戸時代後期の小倉藩の武芸者で方円流の創始者です。碑文は、彼が天下の武芸十六流の芸をきわめ創案した方円流の由来を自ら述べたもので、文化15年(1818)門人1934人によって建てられました。天保14年(1843)没、享年93歳。

旅賓之墓(旧参道突き当たり)
大阪の実業家橋本豊次郎(1888〜1937)が、亡くなった行路病者の供養の碑として、大正12年(1923)旧小倉市に寄進したものです。碑面に『施主某』とあるのは、自分の名前を出さないことを条件に寄進したからです。
 『旅賓』とは、無名の行き倒れの人でも、小倉に来た以上は旅のお客様である賓客として弔うのが礼儀であり、人情であるという彼の考えから自らが名づけたものです。
 豊次郎は、北九州の文化サロンといわれた「櫓山荘」の所有者で、北九州の文化運動を援助しました。夫人は、戦後の女流俳人の第一人者といわれる橋本多佳子(1897〜1963)です。
 豊次郎は昭和12年(1937)大阪で亡くなりましたが、遺言により多佳子夫人の手でここに分骨されています。
最中庵我山の句碑(旅賓之墓の右側)
“こけさふな あふなゐ石に 涼みかな”
 我山(本名は鎌田六左衛門、1817〜1879)は小倉藩士で、俳人三世文藻舎春渚の門下です。

芭蕉塚
(旧参道の中の段、お百度石塔の右側)
碑面にただ「芭翁」と刻んでいるだけで、建てられた年代などは不明です。
建立には我山の働きがあったのではないかといわれています。

法華石書塔(旧参道を登り詰めた本堂の前)
書家楢原秀近(号は棠陰、関明堂〉の碑で、門人などによって建てられました。秀近は和歌、漢籍にすくれた小倉藩士。文政3年(1820)没」

北九州市教育委員会
2日目はここからスタート、地図で見ると池がありました
現地には2基の石橋が待っていました

そのうちの太鼓橋

親柱

北側

上部