橋本八幡宮の由来
「この八幡宮は今から五百年前文明十四年(1482)に、柴田蔵人佐繁信父子によって初めて建立されたもので、当時の社殿の棟札の写しが柴田家に所蔵されております。
蔵人佐の先祖は陸奥国(今の宮城県)柴田郡の豪族で一説には越後国(今の新潟県)柴田の人ともいい、故あって一族郎党を引き連れて、橋本にやってきました。
その時、郷里の八幡宮の分霊をこの地に迎え社殿を建てたと伝えられております。
境内の北側あたりに、黒田藩主の別荘茶屋がありました。三百五十年前の頃のことで、三代光之公は橋本の人を母として生まれ、この地で幼時を過ごしました。
今もこのあたりを“お茶屋の内”といいます。
また殿様の御成り所(休憩所)ができ、それから年貢(税)の取り立ての代官所と蔵ができ、そこを蔵本屋敷といっていました。
光之公は産土神として、八幡宮を崇敬し、寛文六年(1668)西新町紅葉松原に立派な社殿を建てて遷宮しました。
橋本の人はここから遥拝しておりましたが、たっての希望で後に社殿を再建し、以来数度の改築が行われ、現在の拝殿は明治二年に、神殿と渡殿は大正七年に改築されたものです。」 |