鳴渡(なると)観音
「音声寺真言宗鳴渡山南福院と号す。古心寺艮にあり。石体の観音あり。秋月種実の家臣に恵利内蔵助と云う者あり。本より武功もありしが、天正15年の春、秀吉公九州征伐せんとて下向したまふよし風聞あり秋月種実は無二の嶋津方にて偏に篭城の用意をせしかば、先いつはりて秀吉の降参の使者を上せ、其軍勢をうかがひ、敵の様を見るべしとて内蔵助を指遣しける。内蔵助安芸国広嶋にて秀吉公に行合、則陳所に伺侯し、秋月種実の使のよしを申上る。浅野弾正是をとり次秀吉公聞たまひ、内蔵助に対面有て、秋月は嶋津と無二の一味たるよし、其聞えあり。嶋津合体の志を翻し、吾身方に参るべきとの使ひ尤もなり。さあらば、筑前筑後両国を充つべし、汝急ぎ馳下て、此むねを秋月に申べしとの仰にて御腰物を下されける。内蔵助急ぎ秋月に下り種実に此由を申、且つ秀吉公の軍粧盛なるあり様、大軍のいかめしき事を告て、降参致べしち申ければ種実大にいかり 汝は秀吉に謀られけるよな。吾は嶋津と七代までの知音なれば其義を変じいかでか秀吉には馬をつなぐべき、いと片腹痛き事哉とぞ笑ひける。内蔵助此由を聞秀吉公の勢ひ敵し由を、つぶさに語りければ、種実及家臣等皆是を聞てあざけり偏に内蔵助が臆病にて、かくはいふぞとわらひける。内蔵助是を聞以後に思知べき事ながら、当時の面目を失ひける事をいきどほり、此石に踞自殺しぬ。
其石今は堂の中にあり。高二尺ばかり。是を本尊として観音と号す。誠に此石は忠臣の踞て自殺せし石なれば、心ある人は哀を催すべき事なりし。
観音堂の前に小川の流れありて常に水のなる音あれば鳴音と名づけ侍りしにや。」
筑前国続風土記より |