腹切岩 2006.09.03 |
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腹切岩 「三個並ぶ大岩のうち北側のものを通称腹切岩といっている。その岩の上面は平らでその広さは優に畳三枚敷かれる。天正15年(1587)3月14日、秋月種実の家臣恵利暢尭がこの岩の上で、妻子をまず刺し自らも腹かき切って従容として死についたというので、このように呼ばれているのである。これより先豊臣秀吉は九州制覇を志し、大軍を率いて西下していた。この時恵利暢尭は主命を帯びて、敵情視察のため広島まで出向いたのであったが、秀吉軍の装備のすばらしさを目の当たりに見て大いに驚き、急ぎ帰って和睦の賢なることを勧めてやまなかったけれども、ついに容れられなかったから意を決し、主家のために潔く諫死したといわれている。時に38歳の花ざかり。 中央の殉節碑は昭和11年5月、暢尭ゆかりの人々によって建てられたものである。なお、近くにある鳴渡観音は黒田長與入国に当たり、その忠節に感じて建立したものという。堂下に暢尭の墓と伝えられる一基の墓石がある。」 |
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