飫肥街道は今から400年ほど前の天正〜慶長年間に、日向一円に48外城を築いた伊東義祐が本城都於郡城から飫肥城を結ぶ道として開削したものといわれています。江戸時代には飫肥藩の主要幹線道路として整備され、飫肥城下と清武郡を結び人や物資が往来しました。 飫肥城を起点として東の飛ヶ峰で海岸線を往く鵜戸街道と分かれ、ここから清武まで八里八町(約35Km)と言われ、一里ごとに一里塚が造られました。当時「清武道」とも呼ばれていたようです。中間地点の山仮屋には関所が設けられました。 また、江戸への参勤交代にも利用され、飫肥城下を早朝出発した藩主一行は清武地頭所で一泊目を迎えています。 街道の大半を鰐塚山系の山岳部を占め、尾根伝いや山腹沿いの険しい山道が続くのが特徴です。飫肥藩領には海岸線を往く鵜戸街道もありますが、「七浦七峠」と言われた鵜戸街道より飫肥街道の方の利用が多かったようです。 明治になると飫肥街道を基線として新たな道が開削され、県内初の道路トンネルとして山仮屋随道が明治25年に完成しています。現在の県道宮崎〜北郷線に発展するこの道を「飫肥街道」と呼び、以前のものを「旧飫肥街道」という場合もあります。 |
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安井息軒旧宅 宮崎県宮崎郡清武町 江戸時代の学者・安井息軒は、清武町が生んだ偉人です。 幼いころから学問に励み、「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり」という考えのもと、多くの人材を育てました。 旧宅は中野の武家屋敷群の中にあり、国指定文化財です。平成6年に、もとの茅ぶきに戻すなどの整備が行われました。平面積は95.321平方メートル。旧宅の東側に当時の古井戸が残っており、息軒が自ら植えたとされる梅が枝を広げています。 園内の生誕碑に刻まれた「今は音をしのぶが岡のほととぎす いつか雲井のよそに名乗らむ」の歌は、息軒が若い頃に向学への思いを詠んだものです。 |
山仮屋隧道 県指定有形文化財 山仮屋随道は県内初の道路トンネルである。 このトンネルは、宮崎飫肥間を結ぶ県道(現在の県道宮崎北郷線)の開設に伴い建設された。宮崎清武間の開通は明治20年頃で、明治23年には山仮屋への道路開削が始まった。宮崎山仮屋間の県道開通は明治25年である。 一方、飫肥山仮屋間も明治25年に一部を残してほぼ開通しており、明治27年頃には宮崎飫肥間の全線が開通している。山仮屋随道の工事は明治25年に着工し、翌年の明治25年に完成している。 トンネル内部の覆工には大阪の堺から取り寄せた良質の煉瓦が使用されており、側壁部にはイギリス式の手法、アーチ部には長手積みの手法が採用されている。これらの技術は当時の最先端の土木技術であり、貴重な資料である。トンネルの規格は場所によって若干の差異があるが、内部の高さが約4.3m、トンネル幅約4.8m、道路幅員約3.8m、長さが約56mである。 山仮屋随道が建設された時期は、ちょうど人力車や客馬車が各地に普及し交通機関としての重要性が増してきた時期であり、近代日本の交通事情の変革期であった。宮崎飫肥間の県道開設とそれに伴う山仮屋随道の建設は、それまでの既存の交通体系の変革という意味において、近代日本の交通史を考える上で重要な意味を持つものである。 |
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飫肥城大手門 日南市飫肥 昭和53年6月に樹齢百年の飫肥杉を使用し、釘を使わない「組み式」で復元されました。飫肥城の玄関として勇壮な門がまえの中にも、季節ごとにその表情を変えながら永久の時を刻むかのように迎えてくれます。 |
日南市大堂津〜南郷町目井津間の日南線 鉄橋の向こうに見えるのは通称虚空蔵様その右奥は大島 タイミングよく列車が通過しています。 |
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乙姫橋 国指定有形文化財 日南市油津 油津大橋よりも下流からのアングルです。 |
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花峯橋 国登録有形文化財 日南市油津 昭和4年建設(昭和25年改造) 今は珍しい、現存する数少ない木造方杖形式の道路橋で、堀川運河、乙姫橋の上流に架かっています。 |
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祇園神社 日南市油津梅ヶ浜 |
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広渡川の河口部で国道220号線との交差点から見えます。 鳥居の奧は洞窟が延び、その奧に龍神が祀られている。 子供の頃、この洞穴は鵜戸神宮に通じていると思っていました。 祇園神社御由緒 神社の祀神 素蓋鳴命 稲田姫命 本殿入口左右の神様は龍神(八岐大蛇)様と水神(水波女命)様です。 この神社は疾病(特に腹痛など)除け 厄難除けの守護神で航海安全 商売繁盛 五穀豊穣 縁結びの神様であり 人々を海難 水難を始め 諸災難から守る神様として広く親しまれています。 神社の沿革 大正12年 油津に赴任された宮崎鉄道管理所長の 星野寅二氏のご尽力により大正13年4月に完成しました 当時三十数名の石工が工事に携わったと云われています |
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梅ヶ浜 日南市油津梅ヶ浜 |
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祇園神社から南に進むと梅ヶ浜です。 昭和10年に油津を訪れた野口雨情は梅ヶ浜にも立ち寄り、奇岩を背に砂浜に立つ姿が写真で残っている。風光明媚な場所ですが、今ではあまり観光名所として知られているとは言えません。 |
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右端は大節鼻 | |
梅ヶ浜をさらに南下すると、この場所に出ます。この道路は右端に見える大節鼻の尾根の切れ目を越えて油津港へ続いています。 この道路ができてから、楽に来れるようになりました。 |
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鵜戸山の磨崖仏 日南市鵜戸 |
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鵜戸山仁王護国寺の第47世の別当隆岳がその在任中の明和元年(1764年)と同2年に宮崎古城村(現在の宮崎市古城)生まれの仏師延寿院に彫刻させたものである。 当時は不動明王及び両童子並びに護摩堂も建立してあり、鵜戸山守護仏として祀られていたものとみられる。海辺の潮風にさらされて風化も進んでいるが、閻魔大王の像は完全に近くに保存され、その右方に四天像の彫刻仏も認められる。 日南市は、昭和45年11月これを文化財(彫刻)に指定した。 一、不動明王 仏身大 1.27m 火焔光背 1.55m 一、閻魔大王及び四天像 ![]() 四天像 |
![]() 閻魔大王 |
![]() 不動明王 |
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鵜戸神宮 神武天皇の父君を御祭神として奉り、創建は第十代崇神天皇の時代と伝えられ、その本殿は洞窟の内にあり、朱塗りの鮮やかな建物です。 縁結び、安産、育児を願う人々の拠り所であり、また、剣法発祥の地としても知られています。 |
左の洞窟の奥に本殿があります | ![]() |
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本殿 |
子供の頃、この橋は嘘つきが渡ると落ちると聞かされており、とても怖かったです。 | ![]() |
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鵜戸神宮北側の旧国道に咲く山桜。 |
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青島 宮崎市青島 |
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宮崎北郷線の崩れかけた旧道にあります。 暗渠ですね。 |
秋山橋 串間市秋山 本日唯一の収穫です。秋山橋がなかなか見つからないので、諦めて串間市から志布志に向かおうとしましたが、肝心の地図を忘れていました。 これは帰れということだと思い、素直に引き返し、再び秋山橋を探し始め、ついにたどり着きました。 国道220号線串間市秋山から県道438号線へ。北東へ約2Km、山下橋手前、秋山小学校方面へ市道に入る。約850m先右手旧道に架かっています。 |